ニサルガダッタ・マハラジ 2冊 まとめ
- 2021/03/17
「意識に先立って」
P47
私は肉体やマインド、意識が笑ったり苦しんだりするのを単に眺めるだけだ。
P86
自分の日常生活に役立つ程度にマインドを使い、それ以上は使わないようにしなさい。
P90
マインドを観察し、マインドの流れの観照者となりなさい。
P104
あなたが出会うどんな自然の経験であれ、ただそれらを受け入れなさい。それらを変えようとしないで、ただ来るがままに受け入れなさい。すべては幻想であり、だれも創造に責任を負ってはいない。それは自然発生的にやって来るので、そこには改善すべき問題はまったくない。
P106
あなたの進歩は、あなたが普通の人たちと付き合う気がしなくなることに示されている。
P121
もしあなたが永遠の平和を本当に望むなら、他の誰のこともかまわず、自分自身の自己に注意を払い、それだけを調査しなさい。
P198
自分自身について尋ね、他人のことは放っておきなさい。
P243
霊的知識のビジネスに巻き込まれないほうがいい。楽しい時間を過ごし、よき人生を生き、他の人の役に立ちなさい。
P283
あなたの本当の状態は肉体と意識が起こる以前にそこにあったし、今もそこにあり、肉体と意識が去ったあとも、そこにあることだろう。
P294
あなたは意識の欠片であり、そこから全宇宙が創造される。
「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」
P34
世界を自分という人の外側にある何かとして見てはいけない。あなたが自分だと想像しているその人を世界の一部として見なさい。
P44
あなたのマインドの鏡にあらゆる種類の映像が現れて、しばらく留まり、そして、消えていく。静かにそれらが来ては去って行くのを眺めなさい。注意深くあり、しかし、決して何にも心惹かれたり、嫌悪感をいだいたりしないようにしなさい。こうした静かな観照は、歓迎されざるお客を無視するように、あらゆる無益な思考をしだいに追い払うという効果があることだろう。
P98
夢を見ている間、あなたの夢の世界はあなたには非常に現実に見える。あなたが「現実」と呼んでいるこの世界もまた夢ではないと、どうしてあなたはわかるのか?
P127
私たちが何も知らなかったときの状態、それが何であれ、それこそが私たちの本当の状態であり、現実である。その状態では、私たちは自分自身の実存を知ることさえなかった。それから、自然発生的に「私はある」というメッセージというか、思考というか知識がやって来た。「私はある」というこの知識は二元性の感覚――主体と対象物、罰と報酬、相互関連する正反対のものの全領域――を開始した。「私はある」という知識以前にあったものが何であれ、それが真実である。「私はある」という知識、ないし意識に引き続いて起こるものが何であれ、偽物である。
意識が特定の形態それ自身を自分であると間違って信じ、その特定の形態のアイデンティティを自分だと思い込み、自分の本質を忘れてしまうのだ。
P140
1、原初の状態では、どんな知識も条件付けも、属性も形態もアイデンティティもなく、「私はある」が行き渡っている。
2、それから、(そうすることが、その性質であるという以外の)どんな明らかな理由もなく、非個人的意識である「私はある」という思考ないし観念が生じ、その上に世界が生きた夢として現れる。
3、意識はそれ自身を顕現するために、形態、肉体を必要とし、それと自分自身を一体化し、それゆえ、「私」の想像的対象化とともに「束縛」という観念を開始する。人がこの自己一体化という立場から、考え、行動するとき、純粋な主体(無限の潜在可能性)を一つの対象物、限定された現実へと変えるという「原罪」を犯すと、言うことができるだろう。
4、どんな対象物もそれ自身の独立した実存をもっていず、それゆえ、対象物は生きた夢から自分自身を目覚めさせることはできない。それにもかかわらず、その冗談とは、幻影的個人(一個の対象物)が、何か他の対象物を「絶対」ないし現実として求めることである。
5、もしこのことが明確になれば、人は向きを反転し意識が起こる前、自分は元々何であったのか(そして、ずっと何であったのか)を発見するために戻る。
6、この段階で、人は肉体でもなければ意識でさえなく、意識が到着する前の命名のしようがない完全なる潜在可能性(意識の中では、その状態がどんな名前をもつにしろ、それは観念にすぎない)であるという「目覚め」がやってくる。
7、これで、円は完全になる。探求者が求められているものである。
結論を言えば、「私」としては、私たちは非現象であることを深く理解しなさい。現在の現象性の状態(その種は意識である)は一時的なものであり、原初の変化しない非現象の状態の上にある病気か月食のようなものである。人ができることはただ、自分に与えられた寿命を生き抜くことだけである。そして寿命の最後に、現象という月食が終わり、非現象がその純粋なユニシティの状態で自分自身の気づきにまったく気づかずに再び行き渡る。
P146
すべての知識は観念的であり、それゆえ、真実ではない。
あなたがあるがままの現実を見て、それで在ることができる前に消えなければならない障害がある。「考えること」、「観念化」、「対象化」、すべてが停止しなければならない。
P147
悟りは達成されることも強制されることもできない。それはそうする機会が与えられるとき、観念による障害が止まるときだけ、起こることができるだけだ。それは、それが現れることができる空っぽな空間が与えられるときだけ現れることができる。
唯一の効果的努力は真実を瞬間的に直観的に理解することである。偽物を偽物と見れば、残るものが真実である。
P183
肉体がそこにあるかぎり、あなたであるのはこの意識している存在であることを理解しなさい。いったん肉体がいなくなったら、生命呼吸といっしょに意識もまた去ってしまうことだろう。この肉体付き意識が現れる前にあるもの、絶対、常に存在するものだけがあなたの本当のアイデンティティだ。それが私たちみんなの本質で、それが現実だ。
P190
自分は探求者だという考えがしつこく続くかぎり、目覚めは起こることができない。
P199
「目覚め」とは、現象世界を個人的に認識する人はおらず、すべての現象の本質的性質と目的は単に現象を認識すること、つまり、この-今-ここにおける機能であることを理解することにある。つまり、感覚のあるあらゆる存在――すべての経験の潜在可能性の源泉としての私――が、肉体精神装置を通じて見かけの宇宙を対象的に経験しているのだ。
受動態で考え、話すことを習慣としなさい。「私は何かを見る」とか、「私は何かを聞く」の代わりに、「何かが見られる」とか、「何かが聞かれる」というように受動的に考えたらどうだろうか? そうすれば、その認識は現象的実体による行為にもとづくのではなく、出来事や起こることにもとづくようになるだろう。そのうちに、偽実体「私」は背景へ引っ込んでしまうことだろう。
「あなた」は肉体-マインドの構造物ではなく、活動している意識であるという立場で体とマインドをくつろがせて過ごしなさい。
P204
相対的現象――世界――は「幻想」ではない。なぜなら、世界はその中に内在している非顕現、絶対の表現であるからだ。実際、幻想なのは特定の現象とあなたが間違って一体化していることである。
P273
いったんこの単純な立場が明確に理解されたら、あなたは自分に割り当てられた人生の寿命を生きながら、自分の好きなことをすればいい。現象化のプロセスには宗教的なことも畏敬的なことも何もないことを理解しなさい。それは自然発生的に起こり、その中では一人の個人的実体としてのあなたは、いかなる意味においても関わっていない。
P303
「悟り」が起こるとき、私たちが自分の普通の状態だと信じているもの――現象的対象物の状態――は病気のように一時的状態に過ぎず、それは非現象の正常な本当の状態の上に降りかかったものであるという直観的認識がある。「普通」だと見なされていたものが、実際は普通ではなかったことが突然に理解されるのだ。そういった認識の結果、個人的実存からただそれ自体へのある種の瞬間的調整がある。意志が消え、何が起こっても正しく適正に思える。人は起こることすべての観照者の立場を取る、というよりむしろ観照することだけが残る。
P343
1、顕現した実存は現象的である。そして、感覚的に知覚可能で時間に束縛されている見かけである現象は、視覚、夢、幻影であり、それゆえ真実ではない。顕現していない実存は絶対的で時間がなく空間がなく、実存していることに気づかず、感覚的に知覚可能ではなく、永遠で、それゆえ、真実である。誰がこれを言うのか? もちろん、それ自身を知覚しようとして成功しない意識である。なぜ成功しないかと言えば、知覚していること(知覚者といったものは存在しない)は、知覚していることそれ自身を知覚しえないからである。目はそれ自身以外のあらゆるものを見ることができるが、それ自身を見ることができない。探求者が求められるものである。これが根本的に重要な真理である。
2、顕現していないとき、私は潜在可能性全体であり、知られているものと知りうるものの絶対的不在であり、知られざるものと不可知なものの絶対的不在である。顕現したときの私は現象すべてであり、顕現していない想像不可能な未知の中の知られているもの全体である。
3、ただ私――永遠なる私――だけが存在し、まったく無条件で、ほんの少しの属性もなく、純粋な主体性である。「自分」という単なる思考は即座で自然な(しかし架空の)束縛である。その自分を消滅させなさい。そうすれば、瞬時に自然にあなたは私である。
4、現象的には、「自分」(そして「あなた」と「彼」)は意識の中の見かけである。どうして見かけが束縛されることができるだろうか? どうして私――純粋な主体性――が少しでも解放を必要とするだろうか? 解放とは、解放を必要とする「人」が誰かいるという考えを取り除くことだけである。
5、人はどうやって自分が霊的に「進歩」していることを知ることができるのだろうか? 「進歩」の確実なサインは、明確な理解が目覚めて、進歩について心配しないこと、そして、解放について不安がないことではないだろうか? ニサルガ(自然)の全体的「機能」を即時に認識すれば、その中には自立した実体の余地はない。
P350
a、個人的人間は生まれたときから、意識(consciousness――大文字のCではないことに注意)を肉体内部に自分が所有している道具の一部と見なしています。それゆえこの段階では、マハラジはそういった人々に次のように言います。「人のまさに実存はその人の中の意識に依存している。もしその人がこの意識をもたずに生まれたとしたら、『その人』は一かけらの土のように投げ捨てられ、破壊されたことだろう。それゆえ、人が自分の本質を理解することを助けることができるのは、この意識だけだということを理解しなさい」
b、それからマハラジは、意識を自分の個人的所有物だと思って、自己満足に陥っている人に次のように言って驚かすのです。「意識を所有しているのは個人としてのその人ではなく、意識(Consciousness――大文字のCで始まることに注意)――現象化されていない絶対の現象化された対象的な部分――のほうであり、その中で何十億の人間の形態も含む宇宙全体が現れるのだ。それゆえ、人はその現象全体のほんのわずかな部分でしかなく、ショー全部が幻影にすぎない」
c、もしこの立場が明確に理解されたなら、肉体が存在する間、私たちは壊れやすいその肉体、現象が起こるための肉体精神器官ではなく、その肉体器官に感覚を与えている生命にあふれた意識であることもまた認識されることでしょう。しかしながら、いったん肉体が「死ねば」、現象化された意識は現象化されていない意識と融合し、私たちは休息している意識――絶対的気づきです。
参考記事
「I AM THAT ニサルガダッタ・マハラジとの対話」 まとめ
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