「ニュー・アース」 まとめ
- 2012/10/16
著者のエックハルト・トール氏は悟りの意識レベルにある人。
内容は、エゴの仕組みを様々な側面から具体例を挙げて詳しく解説している。
内容が詳しい分、要点が把握しにくいので最初に「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」を読む方がおすすめ。
以下は要点のまとめ。
欲望:もっと欲しい
P57
欲望は構造的なものだから、精神的な構造が変わらない限り、内容がどうであろうと永続的な満足はあり得ない。
何をもっていようと、何を手に入れようと幸せにはなれない。いつももっと満足できそうな他の何かを、不完全な自分を完全だと思わせ内部の欠落感を満たしてくれるはずの何かを、探し求めずにはいられない。
不満と恨み
P73
不満は、エゴが自分自身を強化するために用いる得意の戦略の一つだ。不満を声に出そうと頭のなかに留めておこうと、違いはない。
恨みは不満に付随する感情で、エゴはそこからさらに大きなエネルギーを汲み取る。恨むというのは苦々しい思いをする、憤慨する、馬鹿にされたと感じる、傷ついたと思うことだ。人は他人の貪欲さ、不誠実さ、いい加減さ、現在や過去の行動、言ったこと、しなかったこと、すべきだったことやすべきでなかったことを恨む。エゴはこれが大好きだ。
何かに不満をもったとき、頭のなかの声を把握できるかどうか、つまりその正体に気づけるかどうか、試してごらんになるといい。それはエゴの声、条件づけられた心のパターン、思考でしかない。その声に気づけば、同時に自分はその声とは違うこと、その声に気づいているのが自分である事がわかるだろう。
他者のエゴに反応しないこと、それが自分自身のエゴを乗り越えるだけでなく、人間の集団的なエゴを解体するために最も有効な手段の一つである。だが反応しないでいられるのは、誰かの行動がエゴから発したもので、人間の集団的な機能不全の表れだと認識できるときだけだ。そのような行動が個人的なものではないと気づけば、相手個人に反応しようという衝動はなくなる。反応しないとは、ゆるすことだ。ゆるすとは見すごすこと、いや見抜くことである。
反応と怨恨(えんこん)
P77
根の深い恨みは怨恨になる。怨恨を抱いているのなら、思考と感情の両方のレベルでその怨恨と怨恨を生かし続けている思考に気づき、その思考への身体的対応の結果である感情をしっかりと感じることだ。怨恨を捨てようとしてはいけない。怨恨を捨てようとかゆるそうとしてもうまくいかない。怨恨はまがいものの自己意識を強化してエゴを温存する以外何の役にも立たないと気づいたとき、自然にゆるすことができる。
過去にはあなたがいまこの瞬間に生きることを妨げる力はない。その力をもっているのは、過去に対してあなたが抱く怨恨だけだ。では怨恨とは何か。古い考えと感情というお荷物ではないか。
正しいか、間違っているか
P78
自分が正しいという思いほど、エゴを強化するものはない。正しいというのは、ある精神的な立場(視点、見解、判断、物語)と自分を同一化することだ。自分が正しいなら、間違っていると判断される人や状況に対して、自分が倫理的に優越していると思うことができる。その意味でエゴは優越感を欲し、優越感を通じて自らを強化する。
闘いは心の癖
P86
「悪を退治する」のが自分の使命だと考えないように気をつけたほうがいい。何を相手に戦っても、戦えば相手はますます強くなるし、あなたが抵抗するものはしつこく存在し続ける。
闘いは心の癖で、そういう癖から生じる行動はすべて、悪と想定される敵をかえって強くするし、たとえ闘いに勝っても打ち負かした敵と同じような、それどころかもっと手ごわい新しい敵、新しい悪を生み出す。
優越感と劣等感
P100
自信たっぷりだったり、何が何でも優越感を感じていたいというエゴの奥には、自分が劣っているのではないかという無意識の恐れが存在する。逆に内気で自信がなくて劣等感を抱いているエゴは、優越したいという強い願望を隠している。多くの人たちは状況に応じ、接する相手に応じて、劣等感と優越感のあいだを揺れ動く。そこであなたは次のことを心得て、自分を観察しなくてはいけない。誰かに優越感や劣等感を感じたなら、それはあなたのなかのエゴが感じているのだ、ということだ。
親であること
P110
おとなの大半は人生のどこかで親という役割を担う。ここで大事なのは、親という機能に自分を同一化して役割になりきってしまわずに、その機能を充分に果たすことができるかどうかである。親であることがアイデンティティになってしまうと、自分を見失う。アイデンティティになってしまった役割演技は、その機能が必要とされなくなったあとまで引きずられる。そうなると子どもが成人したあとも、親は親であることを諦められない。子どもに必要とされたいというニーズを手放せないのだ。なおも親という役割を強迫的に演じ続けるから、真正な人間関係は築けない。表面的には子どものことを心配しているように見えるし、当人もそう信じているが、実は自分の役割=アイデンティティを維持したいだけなのだ。
ペインボディ
P157
ネガティブな感情が湧いたときには、きちんと向き合い、受け入れ、そして手放すという作業がなされないと痛みを残す。その痛みが積み重なり、身体の全細胞で活動するエネルギー場をつくりあげる。ほとんどすべての人がもっている古くからの、しかしいまも生き生きと息づいているこの感情のエネルギー場、それがペインボディである。
子どものペインボディ
P186
子どもがペインボディの襲撃を受けているあいだは、感情的な反応に引きずり込まれないようにする以外、できることはあまりない。欲求が満たされないことがペインボディの引き金になった場合には、要求に負けてはいけない。そうしないと子どもは、「自分が不幸になればなるほど、欲しいものが手に入る」ことを学習する。これはのちの人生の機能不全につながる。あなたが反応しないと、子どものペインボディは苛立ち、しばらくはさらに激化するかもしれないが、やがては収まる。
ペインボディの活動が収まってから、子どもと話しあってみよう。「あんなに泣きわめいたのはどうしてだろうね?どんな気持ちだった?きみに取りついたのはいったい何なんだろうね?そいつはまた来ると思う?」
次に子どもがペインボディに引きずり回されたときには、「ほら、あいつが戻ってきたね。」と言おう。それをどんなふうに感じているかに、子どもの関心を向けさせる。
豊かさ
P208
欠乏(お金でも、承認でも、愛でも)という考え方がしみつくと、いつも欠乏を経験する。すでにある自分の人生の豊かさを認めること、それがすべての豊かさの基本だ。
何も所有していなくても豊かさは感じられるし、いつも豊かさを感じていると、豊かさは向こうからやってくる。豊かさはすでにもっている人にだけ訪れる。豊かさも乏しさも内面的な状態で、それがあなたの現実となって現れる。イエスはこれを次のように説明した。「もっている人はさらに与えられ、もたない人はもっているものまでも取り上げられる。」
次のことを何週間か試して、結果がどうなるかを見ていただきたい。人々が物惜しみをして与えてくれないと思っているもの(賛辞、感謝、援助、愛情、等々)を自分から他人に与えるのだ。そんな持ちあわせはない、って?あるようにふるまえばよろしい。そうすれば出てくる。そして与え始めるとまもなく、与えられるようになる。与えないものは受け取れない。出力が入力を決める。自分に終始問いかけてみよう。「ここでは私に何ができるだろうか。どうすればこの人の、この状況の役に立てるだろう?」
何が起ころうと気にしない
P216
何が起ころうと気にしない。これは何を意味するのか?自分の内面は起こった出来事と調和している、ということだ。調和しているというのは、起こった出来事との関係に心の中で抵抗せずにいるということである。起こった出来事に善だの悪だのというレッテルを貼らず、ただあるがままに受け入れる。あるがままに受け入れるなら、行動もせず、人生を変化させようともしないのか?そうではない。それどころか逆で、いまという時との内的な調和をベースに行動するとき、その行動には「生命」そのものの知性の力が働く。
生きる喜び
P231
幸福になれるかどうかは自分に起こる出来事しだいだと、つまり幸福は形に依存していると、人は信じている。生きる喜び(真の幸福はこれだけだ)は形や所有や達成や人間や出来事を通じてもたらされはしない。その喜びは外からもたらされることは決してない。それはあなたのなかの形のない次元から、意識そのものから放出されるものであり、したがってあなたと一体だからである。
呼吸
P263
呼吸を観察してみよう。呼吸を感じてみる。空気が動いて身体のなかに入っていくのを感じる。息を吸ったり吐いたりするたびに、胸と腹がわずかに広がったり収縮したりするのを感じる。一つの呼吸を観察するだけでも、それまでは途切れない思考が続いていたところに空間ができる。これは人生に空間をつくるすばらしい方法だ。
自分自身を発見するために自分を捨てる
P273
人々が無意識に形への同一化を強化しようとするやり方がある。充分に目覚めていれば、こういう無意識のパターンを自分自身のなかに発見できるだろう。
・聞かれもしないのに、また状況に変化を起こすこともできないのに、意見を述べること。
・他者そのものよりも、その他者に自分がどう見られているかを気にすること、つまり他者を自分のエゴの投影先、あるいは強化策として使うこと。
・所有物や知識、容貌、地位、肉体的力などによって他者に感銘を与えようとすること。
・何かあるいは誰かに対する怒りの反応によってエゴを一時的にふくらますこと。
・ものごとを個人的に解釈して不機嫌になること。
・心のなかで、あるいは口に出して無駄な不満を並べて、自分が正しくて相手が間違っていると決めつけること。
・注目されたい、重要人物だと思われたいと考えること。
こういうパターンが自分にあることを発見したら、ひとつ実験してみることをお勧めする。そのパターンを捨てたらどう感じるか、何が起こるかを観察するのだ。
目覚めた行動の三つのモード
P317
目覚めた行動の三つのモードとは、受け入れる、楽しむ、情熱を燃やす、の三種である。何かをするときにはつねに、三つのうちのどれかが発動しているかどうか敏感に察知しなくてはいけない。よく観察すると、受け入れるのでも、楽しむのでも、情熱を燃やすのでもない行動は自分自身か他人を苦しめているはずだ。
受け入れる
P317
楽しむことができなくても、少なくともしなければならないことだと受け入れることはできる。受け入れるとは、たったいま、この状況のこの瞬間に自分がしなければならないことだからしよう、と思うことである。行動を楽しむことも受け入れることもできないのなら、やめればいい。そうでないと、自分がほんとうに責任を取れる唯一のことに責任を取れない。その唯一のこととは、あなたの意識の状態だ。
楽しむ
P320
私はあれこれをするのを楽しむ、というのは、実は間違いである。これでは行動のなかに楽しみがあるようだが、そうではない。楽しみは行動のなかにあるのではなく、あなたのなかの深い部分から行動へ、したがってこの世界に流れ込むものだ。目的のための手段として行動するのではなく、いまこの瞬間に全身全霊を込めて行動すれば、どんな行動でも楽しむことができる。ほんとうは楽しいのは行動ではなく、そこに流れ込む深い躍動する生命感で、その生命感はあなたと一体なのだ。
情熱を燃やすこと
P323
情熱を燃やすとは、自分がしていることに深い喜びを感じると同時に、目指す目標やビジョンの要素が加わることを意味する。情熱は創造的なエネルギーの波を呼び起こすから、あなたはただ「波に乗って」いけばいい。情熱が逆境や人々の非協力などの形をとる障害にぶつかっても、決して攻撃せずに迂回するか、相手を取り込んだり譲歩したりして対抗勢力を味方に、敵を友人に変えるだろう。
自分の活動が自分自身だけでなく無数の他者の人生を豊かにし深めていることを感じよう。自分は回路で、形として現れていないあらゆる生命の源から発するエネルギーが自分を通じて流れ、すべての人々のために役立つことを感じ取ろう。
そのためには、目標やビジョンが自分自身のなかで(心と感情のレベルで)、すでに現実になっている必要がある。情熱とは心のなかの青写真を物理的な次元に移し替える力だ。心の創造的な活用方法と、どうすれば意識的に形を現すことができるかについて、次のイエスの言葉は大切なことを教えている。「祈って求めるものは、何でもすでに受け取っていると信じなさい。そうすれば、その通りになる。」
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